曽根天満宮のまつり
 曽根天満宮の氏子は、曽根町(西之町・東ノ町・南之町・北ノ町)・伊保町・阿弥陀町・中筋・梅井・高須となっているが、大正初期の「印南郡誌」には、曽根町、伊保崎村、阿弥陀村、梅井村、中筋村、南池村、北池村、北山新村、長尾新村、地徳新村と記されている。南池以下の五ヶ村は、江戸初期から中期にかけての開発部落であり、祭礼にはお面掛けを輪番で奉仕していた。梅井村も、慶長年間に塩田として開発され、祭礼前日の幟立と奉納相撲が例年の習わしとなっていた。中筋村は流鏑馬奉納しており、残りの三ヶ町村が神事に関係していた。
 曽根天満宮の神事とは、流鏑馬神事・一ツ物神事・和供(にごく)神事の三者を指し、このうちの流鏑馬だけは他の二神事とは独立した感がある。神事においては、曽根村を本庄村、伊保崎村を伊村、阿弥陀村を東西に区分して東村・西村と呼ぶ習わしになっており、本庄村は東・西・南・北に、伊村は東・西・中・南・高須に分かれて祭組を形成してた。
 一ツ物神事に関する役は、一ツ物の他行事一人、酌人二人があり、一ツ物には本庄村・伊村・東村・西村より各一人宛出し、村内で輪番制になっていた。従って一ツ物は同時に四名登場した。行事は四ヶ村の輪番で、酌人は行事当番並びに和供当番部落に於いて作法等を教え養成する定めであった。