昔々の物語

お祭りの舞台となる曽根天満宮は、菅原道真公が太宰府へ左降の際に「我に罪なくば栄えよ」とお植えになられた松のご縁で、四男淳茂公が臣13人とともに当地を訪れ父君を祀ったのが創始と伝えられております。遅くとも鎌倉時代にはこの地に社殿が建ち、祭祀が行われていたものと思われます。

 

氏子は、旧印南郡曽根村全域と今市・中島を除く伊保村、魚橋・生石を除く阿弥陀村の三ヶ村で、中世には伊保庄と呼ばれた地域です。

天正年間に秀吉により10石が寄進され、後15石となり、池田輝政姫路入封と共に30石に加増され、朱印地として幕末まで継承されました。

 

近世、伊保村・阿弥陀村が当初から姫路藩領であったのに対し、曽根村は正保頃には天領と鳥取藩に二分され、寛文2(1662)年松平正直が福本藩を立てると鳥取藩が移され、天領の方は延享4(1747)年に一橋家領となり幕末を迎えることとなりました。

 

現在の氏子は、曽根西之町・南之町・東之町・北之町・伊保東部・南部・中部・西部・高須・梅井・中筋西・中筋東・中筋一丁目・春日野町・時光寺町・阿弥陀西・東・南池・北池・北山・長尾となっている。

 

    *初代『曽根の松』は寛政10(1798)年に枯死したとされるが、その幹が霊松殿に

     保存されている。平成22(2010)年現在5代目の松を見る事ができる。

曽根天満宮

    萬 歳  萬 歳      (ばんざい ばんざい)

    菅 公 の         (かんこうの)

    御 威 徳 に        (ごいとくに)

    我 等 は 感 謝 し て   (われらはかんしゃして)

    平 和 に         (へいわに)

    輝 く           (かがやく)

    笑 顔 の 大 祭      (えがおのたいさい)

 

にっしょ(曽根西之町)に人やったら大半が知ってると思うけど、他町の人はほとんど知らないでしょう。

“にっしょのやっさ”を差し上げる時の唄です。

 

また、我々の母校『曽根小学校』の校歌の歌詞

 

    千歳の後の今もなお    (ちとせののちの いまもなお)

    文訓む人の鏡ぞと     (ふみよむひとの かがみぞと)

    尊み奉る菅公の      (とうとみまつる かんこうの)

    手植えの松ともろともに  (てうえのまつと もろともに)

 

              *今改めて書いてみると、みごとに 七五調やなぁ

 

 

 

菅公とはもちろん菅原道真公のことです。

菅原道真公は伊保港に船でお着きになり、日笠山に登られて播磨灘の風光を愛でられ、稚松を植えられたようですが、その際の逸話として伝えられているお話があります。

 

伊保港に近い当たりで、菅原道真公が水を乞われた際に「当地は海が近く塩からくって貴いお方のお口には合いません」と答えると、「それでも良い」と口にされて「これでは皆も困るであろう」と梅の小枝をさして「ここを掘ってみよ」とお教えになられた。いわれた通りにそこを掘ってみると真水が懇々とわき出し、それ以来水に困ることはなくなり、この井戸を『梅の井』と呼んで尊びました。

 

また、カモジョと呼ばれていた現在の伊保中部の加茂神社へご参拝になられた際には『なぎさ井戸』で手水を使われたとも伝えられています。

 

日笠山には菅原道真公がお休みになられたといわれる『腰掛岩』が、今も大切に玉垣で囲われて保存されています。

 

 

これらは、実際はどこまで史実なのかはわかりませんが、当地の人々が菅原道真公を尊び、親しんでいるのは事実です。

菅原道真公
正確な資料が残っていなくて伝承が多く、史実と異なる部分もあると思いますが、今も言い伝えられているのは事実ですので、そのつもりでお読みください

所縁のある和歌をご紹介します。

 

     印南野は行き過ぎぬらし天づたふ

          日笠の浦に波立てり見ゆ

 

万葉集の中の一首です。

当時は、伊保崎が海に突き出しかなり深い入り江を形成し、日笠山は海に面して立つ山であったらしく、波静かな浦の景観は絶景だったようです。

 

 

     誰をかも知る人にせむ高砂の

          松も昔の友ならなくに (古今集)

 

     立渡る浦風いかに寒からむ

          千鳥むれゐるゆふ崎の浦 (山家集)

 

     

 

 

 

     老いぬとて松はみどりぞまさりけり

          我が黒髪の雪のさむさに

 

菅原道真公が左遷された地で老いてゆくわが身を憂いた和歌。

老いたとしても松はいっしょう緑色を増しているが、私の黒髪には雪のようなものが混じって寒々としている。

 

 

     悲しびは尽く河陽に父と離れし昔

          楽しびは余る仁寿侍臣の今 

 

淳茂が播磨国から帰京後従五位下の位を与えられたときの喜び詠んだ句ですが、その喜びの対比として、父菅原道真公が摂津(瀬戸内航路の起点)へ護送される際の別れの悲しみを詠んでいます。

 

 

 

最後に、寛政7(1795)年3月に小林一茶が詠まれた俳句です。

 

     散り松葉 昔ながらの 掃除番

 

 

 

ちなみに、曽根天満宮には、

古代から現代までの高砂や松にちなんだ和歌を刻んだ玉垣が奉納されています。

よろしかったら一度ゆっくりと時間をかけてご覧ください。

和 歌
以下の文献を参照させて頂きました
「神まつりの智恵」曽根文省著・「播磨の祭礼」兵庫県教育委員会